「読書について(岩波文庫)」の読書ログ

読書レポート

自ら考えることの重要性

 自分の頭で思索することと読書とでは精神に及ぼす影響において信じがたいほどの大きなひらきがある。読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が私たちの頭脳に流れこんでくるだけの作業となるだろう。

 少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても、自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てる。

 ところが大半の者は他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾って一つの体系をつくる。彼らの思想体系は他人から寄せ集めたにすぎない真理である。

 それらをいかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしていても、いくども考えぬいた知識であればその価値の方がはるかに高いものとなる。

多読では見えないもの

 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む私たちは、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。これこそ大多数の読書家の実情である。学者も例外ではない。バネに、他の物体をのせて圧迫を加え続けると、ついには弾力を失う。精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、やがて弾力を失うことになる。

 紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではない。歩行者の辿った道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根を下ろすこともなく、多くは失われてしまう。

読書で才能を呼びさます条件

 才能を備えた著作家(天才)の本を読んでも、一つとしてその才能を自分のものにするわけには行かない。だがそのような才能を素質として「可能性」として読み手が所有している場合には、私たちは読書によってそれを呼びさまし、明白に意識することができるし、そのあらゆる取り扱い方を見ることができる。

 読書によって、その使用の効果を具体的な例に照らして判断し、その正しい使用法を習得することができるようになる。このようにできて初めて私たちは、それを実際「現実に」所有することになる。

 つまり読書は私たちが駆使しうる天賦の才能(潜在能力)の駆使を促すのである。だからこの読書の教えは、生まれながらの才がある場合にのみ意味を持つ。

終わりに

 悪書は、読者の金と時間と注意力を奪い取る。金銭めあてに、あるいは権威ほしさに書かれるにすぎない悪書、私たちの国の現在の書籍、著作の大半は、読者のポケットから金を抜き取ること以外に目的がなく、著者と出版者と批評家は、そのために固く手を結んでいる。

 彼らは、大衆社会全体の手綱をとることに成功したのであるが、その秘訣は時代遅れにならない読書法に励むように、つまりいつも皆で同じ新しいものを読んで、日常生活を営む際の話題にこと欠かないように、大衆を訓練したことである。

 したがって読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。

 あらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけは熟読すべきである。良書が、真に私たちを育て、私たちを啓発する。また良書を読みすぎるということも起こらない。ただ一つ、良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

感想

 素質がない者がいくら良書を読んでも(努力しても)才能が開花しないというショウペンハウエルの厳しい指摘は胸に響きますが、現代の学校では、まず先生方は口にできない「教え」でしょう。生徒に対して素質がなければ努力しても才能が開花することはないと発言したら炎上です。

 だからオブラートに差し障りなく、「石の上にも三年」「継続は力なり」など何事も諦めずにコツコツ歩むことがやがて大きな成果に繋がり大切だ、という固定観念を私たちは刷り込まれてきた世代です。確かに継続することで途方もない成果を得た人たちもいます。その方々を否定する気もありません。

 新進気鋭の芸術家岡本太郎は、著書の自分の中に毒を持てで、「三日坊主でかまわない、その瞬間にすべてを賭けろ」と説いていました。

 何かをはじめても、続かないんじゃないか、三日坊主で終わってしまうんじゃないかと心配し、結局は何も挑戦せずに人生を終えてしまうような人々に対し、励ましのエールを送っています。

 これは恋愛と同じで、告白してフラれても落ち込む必要はなくて、逆にそのおかげで次は世界中の誰とでも結ばれる可能性を手に入れたと気付かせること。三日坊主で終わっても次はもっと素敵な出会いに恵まれるかもしれないとアドバイスすることの方が、真実を隠すことよりもよほど建設的で優しい教えだと思います。

 ショウペンハウエルは、一見すごく口が悪くて厳しいことを何度も本書で述べていて勘違いされるかも知れません。でも、次の文章に彼の人間性が現れています。

 「心に思想を抱いていることと胸に恋人を抱いていることは同じようなものである。我々は感激興奮のあまり、この思想を忘れることは決してあるまい、この恋人がつれなくなることはありえないと考える。しかし去る者は日々に疎しである。もっとも美しい思想でも、書きとどめておかなければ完全に忘れられて再現不能となるおそれがあり、最愛の恋人も結婚によってつなぎとめなければ、我々は避けてゆくも知れず遠ざかる危険がある。」

 『読書するときはメモを忘れずに』ということを読者に伝えるだけで、こんなキザなセリフをする人が、悪い人であるはずがないと思います。

 また、『多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである』というアドバイスは、何も読書だけでなく、投資行動にも生かせる真理が隠れていたと思うのは、私の考えすぎかでしょうか。

 ショウペンハウエルの著書「読書について(岩波文庫)」に興味をお持ちになったのであれば、是非お手元に取り寄せて熟読することをお勧めします。本文は約150ページ、ボリュームも多くありません。それではまた、お会いしましょう(‘ω’)

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