「ウォールデン 森の生活(上)(小学館文庫)」の読書ログ

読書レポート

概要

 坂口安吾は、文化の本質が進歩にあると指摘した。私も同意見ではあるが、一点条件を加えたい。文化が人々の暮らしの条件の進歩であるならば、その核心は代価を大きくせず私たちに良質なモノを供給することであり、それは交換に提供する人々の生活実態に根差したものであるべきだろう。

 ソローは人間の生活で必須なものは、①食物②住居③衣服④燃料という四つの項目を挙げていた。現代でも衣食住は人々の暮らしの根底を支えるものであり、彼と私たちは同じ価値観を共有している。そんな彼が池の畔で2年余りの生活で辿り着いた思索をまとめたものが『ウォールデン 森の生活』であり、現代社会を生きる私たち一人ひとりの価値観に問いかけてきた。

 パリのサルたちの組頭が旅行家の帽子を頭に乗せると、アメリカのすべてのサルたちが真似して大喜びすること、ようやく家を手に入れると、人々は豊かどころか、お金の面でも、精神の面でも、貧しくなったことなど、何気ない隣人の生活を通し、身に纏う偽りの着物を替えただけでは、自分の中身を変えることはできない。いつまでも、真実ではなく、真実らしさを追い求めた先に、新しいモノはないと暗示している。

欺瞞

 アダム・スミスが『国富論』の中で、「文明化した社会では、分業により最下層にまで富がゆきわたる」と説いたことは有名だが、現実はどうか。何か変わったか。もちろん富を得た人もいるだろうが、大多数は何も変わらなかったのではないか。

 太古の昔から一部の階級の贅沢な暮らしは、別の階級の貧困で支えているのは紛れもない事実である。一方に宮殿で暮らす階級があれば、もう一方に、掘っ立て小屋で暮らす階層がいてはじめて収支均衡が保たれる。ピラミッドを造った多数の人々が、ニンニクを食べて生き長らえた。そんな墓づくりをした彼らに、墓はなかったことを見つめなければならない。

 この富を得られなかった階層の労働者によってようやく、現代を現代たらしめた多くの仕事が成し遂げられたことを考えれば、この階層に報いてこそ、真の公正が保たれるべきである。そのはずの階層が犠牲にはなってはいないか、ということを彼は指摘している。

 人は文明が未発達の段階ですら、素朴で簡素で、必要に十分に見合った豊かな避難場所としての家を持っていたが、現代社会では、全体の半分を超える家族が家を持てないでいる。文明化が隅々まで行き渡っている大きな都市では、家を持つ家族はさらに少ない。

 年ごと税金のように家賃やローンを取られる。十分な食事と睡眠で元気を取り戻す避難場所であったはずの家に、将来の暮らしの大部分を費やさねばならない。人はいつしか、自ら作り出した道具の道具になっている。そしてこれは、家に限ったことだけではない。

 以上が『ウォールデン 森の生活(上)』の要約です。

終わりに

 最後に、聖書、マルクスの資本論に次いで2億冊の売り上げ発行部数を記録したサン・テグジュペリ著「星の王子さま」に、いまだに考えさせられる一説があるので、紹介して終わりたいと思います。

おとなたちは数字が大好き。新しいともだちについてきみがおとなたちに話してあげても、おとなたちはけっして本質的なことについては質問しない。たとえばこんなことは絶対に訊かない。「どんな声をしている? どんな遊びが好き? 蝶を集めている?」かれらが訊くのは次のようなことだ。「いくつなの? 兄弟は何人? 体重は? お父さんの年収は?」それだけ訊いてやっと、ともだちのことを知った気になるのだ。おとなたちに、こんなふうにいってみるといい。「薔薇色の煉瓦でできたきれいな家を見たよ、窓にはゼラニウムが咲き屋根には鳩がいた……」おとなたちはその家を想像することもできない。こういってやらなくてはならないのだ。「十万フランもする家を見たよ」と。するとかれらは感嘆する。「なんてすてきな家だろう!」

 現代人は、人が完璧に生きるために便利だから、と称して制度をもうけ、暮らしを支える働きの多くを制度に移してきた。だが、人と人、個の対立とは永遠に失われるべきものではなく、常にただこの個の対立の生活の中に存在していることは意識したい。人の人生は何もせずには長いが、何かを成し遂げるにはあまりにも短い。そんな私たちが為しうることは、ただ一つ、少しずつ良くなれ、と行動し、未来へと繋げることであろう。

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