「堕落論(岩波文庫)」の読書ログ【導入編】

読書レポート

「堕落論」を読み解く

 私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。あらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づいた。無頼派坂口安吾が示してくれた「真の闇」とは何だったのか。安吾はなぜ『堕落論』を書いたのか。現代の私たちが見過ごしてきた真実の世界を一つ一つ紐解いていきたいと思います。

ドラマのような描写の連続

 靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさに閉口していた。その馬鹿らしさに笑うけれど、他の事柄では、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだろう。戦時中、日本映画社の嘱託で働いていた安吾。やがて敵が上陸し四辺に重砲弾の炸裂するさなか、運命に従順な人間の姿を見た。

 麹町のあらゆる大邸宅が嘘のように消え失せて余燼をたてており、上品な父と娘がたった一つの赤皮のトランクをはさんで濠端の緑草の上に座っている。片側に余燼をあげる茫々たる廃墟がなければ、平和なピクニックと全く変わるところがない。

 道玄坂では、坂の途中に爆撃のものではなく自動車にひき殺された死体が倒れ、一枚のトタンがかぶせてある。行く者、帰る者、罹災者達の蜿蜒たる流れがまことにただ無心の流れの如くに死体をすりぬけて行き交う。

 猛火をくぐって逃げのびてきた人達は燃えかけている家のそばに群がって寒さの暖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。

 占領軍は終戦直後の日本は虚脱して放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と異なる驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子どもであった。笑っているのは常に十五、六、十六、七の娘達であった。彼女等の笑顔は爽やかだった。この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。

 私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれていればよかったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。

 以上が『堕落論』を要約した導入部分です。

政治と制度に対する反逆と復讐

 ここまで見てきたように、安吾の回想は読者に精神的な余白を与えることで、人々のイマジネーション(心象)に働きかける言葉で満ちています。さすが映画人。まるで映画のワンシーンのような情景が次々と脳裏に浮かんできますね(^^♪

 さらに安吾は、『私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた』の一文から読み取れるよう、読者と共に「現実世界」へと自らを引き戻します。彼は自分がいる「この美しい世界」がフィクションであることに気づいてしまったのです。よくラノベにある夢落ちの如くですね(^^♪

 ではここで夢から醒めた安吾の心境を少し覗いてみましょうか…|д゚)

 「美しい夢の世界」から目覚めると、現実世界のポッドの中だった。ポッドの中の安吾は、培養液の中で、体に多くのプラグが繋がれた状態だった。隣人のネロ君はまだ眠ったままです。プラグを外し、立ち上がった安吾の視界に飛び込んできたのは、魑魅魍魎怪異の王キスショットが、眠ったままの人々を起こさぬよう、むしゃむしゃとポンデリングを独り占めで食べている世界でした。

 エッ!?何これ?やばくない。誰も気づいてないじゃん(; ・`д・´)汗

 なんで俺だけ起きちゃったんだろう…。

 もう一回寝よう(つ∀-)オヤスミー

 安吾は「夢落ちなくして物語がはじまらない」ことを熟知していたのでした。魔界大帝キシリカもビックリ、恐るべき安吾の千里眼(;゚д゚)ゴクリ…

 そして安吾の背後に忍び寄る出版担当者の足音…(/ω\)ネサセテー

(一方、別の世界線の安吾は、「日本国民諸君、私は諸君に日本人、及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ」とし、お前らいいかげん目を醒ませよ!いつまで搾取され続けているんだ!ポンデリングが無くなるぞ(>_<)と必死に隣のネロ君を揺すって目覚めさせようとしました。これが『堕落論』を著した直接のキッカケになります。)

 次回、『寝言で堕落を叫んだら隣のネロ君が起きちゃった!(仮題)』をお送りします(^^)/

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